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2010.07.23
灼熱のポンペイ遺跡で6時間半観光 Vol.2
イタリア:ポンペイ

 エルコラーノ門(下地図27)を出てから秘儀荘(下地図30)までは600mくらい離れていた。

 途中にはネクロポリスがあり、奴隷から解放された自由民、ディオメデスの邸宅があるがネクロポリスで紹介されている彫刻数体は見つけられなかった。

ディオメデス荘。浴場、居室、客間があり客人はここから広がる庭園と海の眺めを楽しんだ。公開されていないが邸宅の下の階にはワインセラーがあるそうだ。(上の地図29)

秘儀荘。海へと続く下り坂の途中にある邸宅で紀元前2世紀に建てられ、紀元前60年と紀元1世紀に改修された。こおの辺りには100のヴィッラがあり、大抵は農業関係従事者の家だったが、上流階級がこの辺りに別荘を持つのがファッショナブルとされていて彼らの別荘もあったそうだ。(上の地図30)

「ディオニュソスの秘儀」への入信の様子を描いた連続画

連続画の続き

連続画の続き。一体何をしているかさっぱりわからないが、とても鮮やかな赤い色が印象的だった。ポンペイの赤と呼ばれているそうだ。

他の部屋にも壁画が残っているが、やはり先ほどの部屋のインパクトが一番強い。

 秘儀荘からエルコラーノ門まで戻ったら、今度は北端の境界線に沿って北側の真ん中辺りまで行く。そこから南側の区域の見学。

 遺跡の北側の道は町よりも高い場所になっているので見下ろせるかと期待して歩いたのだが、ヴェスーヴィオ門に達するまでは何も見えない。門に到着して始めて眼下の町を見る事ができた。
 

 ここから坂を下って再び街中に入る。

ヴェスーヴィオ門。マリーナ門以外の門のすぐ外には必ずお墓がある。ここにも重要な役割を果たしていた女性の墓がある。(上の地図31)

ダムのような役目の場所。ここはポンペイ遺跡の中で一番標高が高い(42m)場所なので、滝から流れる水をここで3本の主要な運河に流す場合に必要に応じてここで水門を開くということを行っていた。ローマ帝国の上水道、下水道に関する技術は本当に高いと驚かされるし、都市を計画するにあたってよく考えられているのがすごい。(上の地図32)

アモリーニ・ドラーティの家。家の名は部屋を飾っていた金でラミネートされた天使に由来する。家の持ち主はネロ皇帝の2番目の妻の親せき筋。紀元前3世紀に建てられ1世紀にリモデルされている。中庭は大理石のレリーフや彫刻で飾られ、自然の中にいるような、田舎屋のような雰囲気を出している。(上の地図33)

白と黒のスタイリッシュな床装飾。(上の地図33)

家の内部の様子。(上の地図33)

微妙な感じの壁画もかなり色が残っている。(上の地図33)

牧神の家。家の門を入った中央にブロンズの牧神が置いてある。ポンペイの中で一番広い面積を持つ家で敷地面積2970平方メートル。(上の地図17)

入口に「アレキサンダー大王の勝利」を描いた大きく緻密なモザイク画が有名。本物はナポリ国立考古学博物館にある。

「アレキサンダー大王の勝利」(一部)

「アレキサンダー大王の勝利」(一部)

ディオスクーリの家。ポンペイの後期に作られた中でもっとも贅沢な邸宅の1つ(上の地図19)

メリーガーMeleagerの家。家の中にコリント式の柱が立つ、ポンペイではあまり見られないスタイルが特徴。(上の地図20)

 ここまで見終わって時計は12時5分前。レストランのあるばしょに戻ってきたのでのぞいてみると既にカウンターに少し行列ができていた。

 時間的には丁度昼にいいのだが、さっき秘儀荘から戻る途中でクッキーを食べて少しの空腹を誤魔化してしまったので、食欲がわかない。無理に食べても消化疲れしそうなのでトイレ休憩だけとして、そのまま観光を続けることにした。

○フォロの西側


狩猟の家。色鮮やかな狩猟のフレスコ画が壁に残っている。(上の地図37)

狩猟の家。(上の地図37)

狩猟の家。(上の地図37)

パン屋さん。大きな4つの粉ひき臼と焼き窯が見られる。ポンペイに34ヶ所あるパン屋の1つ。パンは紀元前2世紀にはローマ人の間に広まっていた。このパン屋には販売カウンターがないので卸売りとも考えられる。(上の地図38)

12時を過ぎてくると本格的に暑い。水飲み場はだんだん水飲みとともにちょっとしたシャワーと化してきていた。首筋を濡らすと効果的なんだよねぇ。

Caecillius Jucundusの家。2つのレリーフで有名な家。1つは盗まれてしまったが、もう一つは倉庫に保管されていて、紀元62年の地震が起こった当時のポンペイの町の様子が描かれているそうだ。でも倉庫にあると言われたら見られないので、なんだかなぁという場所だった。(上の地図34)

中央浴場。ポンペイの繁華街がこの周辺に移ってきたために作られた新しい浴場が紀元62年以降に着工されたが完成はしなかった。(上の地図35)

やたらと人が集まって、ちょっとした行列までできていたのは「娼館」。(上の地図39)

狭い部屋が並び、廊下の壁の上の方に春画が。(上の地図39)

遺跡について様々な解説を子供にしていたパパは、この場面をどうやって切り抜けるのか興味深いところだ。(上の地図39)

スタビアの浴場。紀元前3-4世紀に建てられた施設の上に紀元前2世紀に浴場を建てた。(上の地図40)

暑いし、疲れたし、今どこにいるかわかんなくなっちゃったし・・・。そんな人に道を聞かれた。まさに町見学をしている感じだ。

○大劇場周辺

 40番の浴場の西側の大通りをまっすぐに南に向かって歩いて行くと涼しげな木陰のある場所にあったった。上の地図41の「三角形のフォロ」だ。ここには見所がぎしっと固まっている。このエリアは紀元前2世紀の「劇場と神殿」という都市計画としてまとまって作られた。このエリアの中央に幅広く一本走る道は、宗教的な祝日に行われた陸上競技や競馬レースに使われたと考えられるそうだ。

三角形のフォロ。入口のイオニア式柱。(上の地図41)

三角形のフォロ。内部のドーリス式柱。木が茂っていて格好の休憩所なので、私達もここでクッキーでランチタイム。(上の地図41)

ドーリス神殿。62年の地震での損傷が激しい。(上の地図42)

5000人収容の大劇場。(上の地図43)

下に下りて見上げるとかなり傾斜がきつい座席になっている。(上の地図43)

大劇場と小劇場の間にある柱に囲まれた広間。観劇の休憩時間に観客が寛ぐロビーの役割や雨の日のシェルターとしての役割。(上の地図44)

実際に歩いてみると広々として気持ちのいい空間。(上の地図44)

イシス神殿。イシスといえばエジプト女神での神様オシリスの嫁だ。それがなぜここに?と解説を読むと紀元前3世紀頃のイタリアでは、信仰による死後の救済を望む、特に下層階級を中心にイシス信仰に人気があったそうだ。(上の地図57)

Ceiiの家。そんなに大きな家ではないが、中庭の壁に描かれた狩猟の場面がよく残っている。(上の地図50)

メナンドロスMenanderの家。1800平方メートルという広い敷地の邸宅の持ち主はネロ皇帝の2番目の妻の親類関係と考えられる。(上の地図51)

この絵がそうなのかわからないが、中庭のニッチにギリシアの喜劇作家メナンドロスが描かれていることから、この家が彼の名を取って「メナンドロスの家」と呼ばれている。(上の地図51)

中庭のフレスコ画。(上の地図51)

中庭のフレスコ画。(上の地図51)

ステプハヌスの洗浄屋。ファサードにこの名前が書かれているのが家の名前の由来。ポンペイの重要な産業の1つが羊毛の加工だった。ポンペイ内には生糸加工工場が13ヶ所、糸紡ぎと機織り工場が7ヶ所、染色が9ヶ所、洗浄が18ヶ所あった。洗浄は写真の浴槽に羊毛と水と炭酸ソーダ(まだ石鹸がなかったので)を入れて踏みつけて汚れを落とす方法が取られた。水と炭酸ソーダの代わりに「尿」を使うこともあったようだ。(上の地図52)

 羊毛の洗浄に尿を使うということだが、ポンペイ遺跡見学の最初に方で見た8番の「ユーマチアEumachiaの建物」に公衆トイレがあると解説に書かれていて、更にヴェスパシアーノ帝は羊毛の洗浄に尿を利用する場合に税を課したとも解説されている。現在、パリの有料公衆トイレの名前は「ヴェスパシアン」だったんじゃなかった?ヴェスパシアーノは用をたす場合に税をかけたとばっかり思って非情な君主だと思っていたが、そうではなかった事が今日始めてわかった。尿を使う方に税をかけるなら、まぁまぁ納得がいく。


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