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2008.08.28
ヴェルディの生い立ちを辿る一日
ヴェルディの作品に初めて親しんだのは、2007年にウィーンを訪れた際に夏のフィルムコンサートでアイーダを見た時だった。あの年はフィルムコンサートに毎晩のように通って次々と有名なオペラに親しんだ夏。そんな中でもアイーダは強烈に記憶に残る名作だった。
そいういうわけで、今回一緒にキャンプする友人から事前に「イタリアでどうしても行きたい場所がある」というリクエストがあり、それがヴェルディの生家であると聞いた時に反対する理由はどこにもなかった。イタリアに入ってから購入したロンリープラネットにはヴェルディの生家のみならず、彼が最初に結婚した時の嫁の父、つまり義父の家(ここにも彼は住んでいた)とその後の作曲を行った邸宅に関する情報が詳しく掲載されていて非常に助かった。調べてみると確かに車がないと行きにくい場所ばかりだ。ロンリープラネットだけの情報では行きつけそうもない。
ロンプラによると、義父の家のあったブセットという町の観光案内所でヴェルディの生家、義父の家、邸宅、義父の家の目の前にある劇場の4ヵ所を見学できる共通チケットを販売しているということだったので、そのチケットの購入ともっと詳しい地図の入手のためにまずブセットを訪ねることにした。
ブセットは小さな町過ぎて手元の地図にも町の詳細は掲載されていないし、ロンプラにも地図はない。ブセット、ブセットと名前を頼りに待ちにたどりついたものの、車を駐車した場所が一体どこなのか最初はさっぱりわからなかった。とにかく目の前に立っている立派な古めかしい建物の真ん中のくり貫かれた部分を通り抜けてみて振り返ると、そこにヴェルディの像が。どうやらドンピシャリで町の真ん中にやってきたようだ。
この立派な時計台のついた建物はオペラ上演のための劇場で、この建物の右側一階が観光案内所になっていた。ロンプラにあった通りに4ヵ所共通チケットが販売されているということで購入(13ユーロ)。後年ヴェルディが作曲した邸宅を除いた3ヵ所共通チケットというのもあったが、この際全部見とけ!ってことで4ヵ所チケットを購入した。4
ヵ所の見所は全てシエスタがある。そこで午前中に義父の家と劇場見学、昼食を終えてから邸宅、生家とという順番で周ることにした。
じゃぁ、まず劇場の目の前にある義父の家から。
ヴェルディは後に義父となるバラッツィ氏に招かれて、娘の音楽教師としてこの家でレッスンを行うことになった。やがて娘と結婚してバラッツィ氏が義理の父となるわけだが、バラッツィ氏はヴェルディの才能を高く評価して彼にもっと高い教育を受けさせる資金援助を行い、その結果才能が花開いていったのだそうだ。
不幸なことにこの最初の奥さんは若くして病死してしまうのだが、バラッツィ氏はその後も彼に援助を続けたのだそうだ。バラッツィ氏のヴェルディ発掘なくしては今のイタリアオペラの発展もなかっただろうと思うと氏の貢献度は非常に大きい。そういう意味でもこの家やそうした氏の貢献は後世に知らしめるべきだということで、この博物館が存在しているのだ。1926年にはトスカニーニが、2001年にはリッカルド・ムーティーがこの家を訪れている写真が飾られている。同行の友人の一人はムーティーの大ファンだ。「おお、ムーティーが来ている!」と狂喜しているのだった。
ヴェルディがレッスンをしたり、ここで作曲も行ったという部屋も展示されている。2007年にヴェルディの作品に親しみ、2008年にはヴェルディ本人に親しむ。なかなかいいペースと流れでヴェルディを知ることができて楽しい。
バラッツィ氏の家を見終わって観光案内所に「劇場を見たいのだが」というと、説明を書いたフリップを渡してくれて付いて来いと手招きする。劇場は鍵がかかっていて係員が開けてくれないと入れないのだ。お、ここはガイドつきか?と期待したのだが、係員は「見学が終わったら案内所まで来てください」といい置いて去っていった。あれれ?
劇場はそんなに大きくなくこじんまりとしているが感じの良い場所だった。ブセットの町が大枚をはたいて作ったこの劇場だが、ヴェルディは町の規模に対して贅沢すぎると建設に反対し続け、こけら落としでヴェルディの作品が演じられたりしたもののその初めの公演からずっとヴェルディはこの劇場に足を踏み入れることがなかったのだそうだ。
見学が終了後フリップを案内所に返すとお昼近く。さーて、お昼ご飯にしますか。友人たちは折角パルマの近くにいるのだからと、パルマハムの食べられるお店で外食することになった。私たちは気軽なピザのテイクアウトの店を見つけて店内のカウンターで昼食。後で聞いたらパルマハムの盛り合わせを注文したところ、ものすごい量が出て来て「わたくし、当分生ハム抜きで結構です」と言っているのが笑えた。
私たちは簡単に昼食を済ませて、友人たちとの待ち合わせ時間まで間があるので劇場を見渡せるカフェで食後のお茶(酒)をしたのだが、これがよかった。なにしろヴェルディの像を眺めながらお茶できるのだし、私のワインにはチップスとピーナッツ、夫のエスプレッソにはヴェルディの似顔絵付きの袋に入った砂糖とチョコがついてくる。どちらもなかなか粋な出し方で、更にイタリアが好きになった。
因みにこのカフェではランチも出していて、パスタが4ユーロだったかな。どんなレベルかわからないが、かなりリーズナブルな値段だ。ここでお昼ご飯を食べてもよかったなぁ。
さて、友人たちとは午後1時に待ち合わせて、後年ヴェルディが作曲を行った邸宅「ヴィッラ・ヴェルディ」に車で向かった。観光案内所でもらった地図と教えてもらった行きかたで、随分と田舎にある邸宅に到着した。時刻は午後1時43分。鉄格子の向こうにクリーム色の邸宅が見えている。
鉄格子から右方向に赤い壁伝いに歩いた所に観光の入り口があるのだが、シエスタあけは午後2時半から開始ということでまだ大分時間があるのだった。
10分ほどすると白人の老人団体観光客が到着。ガイドさんが入り口の「午後2時半から」というのを見て頭を抱えた。2時からだと思っていたんだって。日本のガイドさんだったらあり得ない、許されない間違いだろう。しかしイタリア人のガイドさんは「マンマ、ミーア」とか言っちゃってお客さんに何か説明していた。ぜーんぜん、自分の過失という説明にはなっていないんだろうなぁ。
この老人団体はオランダから来た「ヴェルディを満喫する8日間の旅」という旅行の最中だそうだ。ヴェローナでは一流ホテルに宿泊して3日連続でアリーナでの野外オペラを楽しんできたのだと嬉しそうに語っていた。「オペラの席も前の方でねぇ、良かったし、ホテルも最高だったわ」。ヴェローナの野外オペラは前の方の席は滅法高い。かなり高級ツアーのようだ。
こういう高級ツアーに参加しているオランダ人は、ガイドが開館時間を30分間違えてしまった場合にどーすると思う?やがて散歩してきた猫をつかまえて、猫に向かって「あらあら、猫ちゃん。門を開けに来てくれたの、まぁ、ありがとうねぇ」と全員でこの小芝居に参加して言い始めた。ざわつく門の外の様子を見に来た係員に向かって、猫の両脇をつかんで差出し腹話術的に「開けてくださいニャン」みたいな事を言っている。この作戦が成功して、30分前の午後2時なのに門を開けてもらえることができたからすごい。老人の知恵は深いものだ。
で、ついでに私たちも中に入れてもらえることになり、オランダ人グループと一緒に英語のガイド付きで回ることになった。この邸宅は今でも子孫が住んでいて54部屋だったかな、とにかく物凄い部屋数がある邸宅のうちの数部屋を公開してくれているのだそうだ。バラッツィ氏に才能を見出されたヴェルディは音楽で成功し、バラッツィ氏の助言によりその資金で土地を購入していき、広大な敷地を持つ地主にもなった。つまりヴェルディ氏はとってもお金持ちになったのである。地主ヴェルディは小作人にも慕われ、人々のために病院も作ったという美談の一方で、作曲の思索のための小部屋は毎晩金勘定をしていたという噂もあるとガイドが説明してくれた。普通ならば邸宅の持ち主を誉めそやした逸話が並ぶのが常だと思うのだが、こういう醜聞も説明に取り入れている辺りが信憑性が増してなかなかいいガイドだと思わせた。
最後に紹介された部屋には小さなベッドがあり、ミラノの病院で亡くなった時にヴェルディが使っていたものだそうだ。彼に敬意を表してはるばるここまで持ってきたのだそうだ。邸宅内部の写真撮影が禁止なので写真なしで申し訳ないが、ガイドの説明もなかなか面白く、ヴェルディが人々に愛された温かい人柄だったろうという印象が後に残った。
邸宅の外にはワイン醸造の場所があり自家製ワインを作っていたのだそうだ。そういえば、ヴェルディの寝室には大きなつづらのようなスーツケースがあり、モスクワに遠征旅行に出かけた時にはチーズとワインを一杯に詰めていったというエピソードが語られていた。ロンドンに住む友人がフランスから友達を迎える時には、カマンベールチーズとワインをできるだけ持ってきてくれとリクエストするという話を思い出した。
庭園はヴェルディ自身による設計だそうで、人口池はト音記号の形に造られているんだそうだ。んー、ちょっとわからなかったけど。また、庭を散策して作曲する際に思索の邪魔にならないように、近くの川から砂を運んで小道に撒いたそうで今でも小道は砂になっている。
ガイドの説明が終了して、最後に土産物屋に立ち寄った。今日の思い出にヴェルディの珠玉集のオペラアリアが入ったCD3枚組を購入。最後の見学先である生家に向かう道中でさっそくCDを車の中でかけながら走った。しょっぱなから第二のイタリア国家とも呼ばれる名曲から始まり、友人の解説付きで車内が盛り上がる。ヴェルディの曲はメロディアスで覚えやすく、旋律に気品があっていい。ノリノリで生家に向かったのだった。
ロンコールという小さなこの村は、ヴェルディが出たことで村の名前をロンコール・ヴェルディと変えている。1階に馬小屋があり、馬車で移動する人への宿を営んでいたヴェルディの家に入ると70代かと思われるおばあちゃんが立ち上がって迎えてくれた。
誰もちゃんとイタリア語を理解しないというのに、おばあちゃんは家の内部の説明を長々としてくれて「最後に向かいの教会にも行ってくださいね、ヴェルディが小さな頃パイプオルガンを弾いた場所なの」と締めくくった。手振り身振りで何となくわかったような気がして、見学開始。先ほどの邸宅に比べたら小さな家なのだが、両親の寝室、子供達の各自の部屋、1階にはお客さん用のダイニングと寝室があり日本の家から考えるとかなり大きな家になる。
私たちが見学を始めるとおばあちゃんの計らいで家中に響くようにヴェルディのオペラの曲が流されて雰囲気は抜群によかった。家を出る時におばあちゃんは「あなたたち、音楽の学生さん?」と聞いてきたので友人たちが「Si」と答えると、ものすごく満足そうにうなずいて見送ってくれたのだった。この家の案内係として誇りを持って仕事をしている彼女がとても印象に残った生家だった。
向かいの小さな教会の扉を開けると、教会特有の少し湿ったような空気が感じられた。祭壇に向かって進むと、右側に壁画に足場を建てて修復中の若者2名がいて黙々と仕事をしている。左手には上の方にパイプオルガンのパイプが見えていて、これがヴェルディが幼少期に弾いたものだと思われた。
ふーんと見上げていたら、右側の椅子に座っていた男性が立ち上がって、「ヴェルディ?」と聞いてきた。「Si,
Si, ヴェルディ」と答えると、パイプの下にある扉をすーっと開いて「中を見学してもいいです」というゼスチャー。その小部屋にヴェルディが弾いたオルガンがあるのだった。部屋の壁面にはヴェルディとロンコール・ヴェルディ村の人だろうか集合写真が飾ってあったり、楽譜が飾ってある。写真のヴェルディはかなりおじいさんになっていたので、晩年に訪れた時に記念撮影したものだろう。生まれた場所からあまり離れていない場所で一生を過ごしたヴェルディは、故郷に錦を飾り経済的にも裕福で後世に残る作品を多数残している。聞いているだけでこちらも幸せになるような人生だった。小部屋には「というわけで、ちょっと寄付をお願い」箱があったので、皆少しずつ小銭を箱に入れて教会を後にした。
今日一日で垣間見たヴェルディの人生を思い起こしながら、帰りの車の中でヴェルディの曲を聞いていると、明るく温かく力強い彼の音楽は人生の安定と幸福に立脚しているんだなぁと感じる。芸術というと苦悩や挫折から生まれるようなイメージが大きかったが、こういう芸術の生まれ方もある。いやー、ヴェルディは楽しくっていいです。
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